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伝承では琉球王国は『中山』と呼ばれていたようです。
初期の中山は、舜天王統、英祖王統、察度王統の3王統が続きますが、いずれも浦添を王都としてました。

年表
浦添市主要史跡情報
K.安波茶橋と石畳道(あはちゃはしといしだたみみち)
『安波茶橋』は(はっきりしてませんが)1597年に尚寧王が首里~浦添城の道を石畳道に整備したときに小湾川に架けられた石橋で、経塚と安波茶の谷間を流れる小湾川上流に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋及び石畳道からなります。
琉球王朝時代に首里城と中頭、国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として多くの人々の往来で賑わい、琉球国王もこの道を通って普天間宮に参詣したそうです。
手前が南橋、奥が北橋です。
橋の東側には、『茶山』という地名が残ってますが、戦前まで琉球王家の茶園でした。
別角度で南橋。左側に少しだけ北橋が写ってます。
L.経塚の碑(きょうづかのひ)
『経塚の碑』は、経塚公民館の横の丘の上に『金剛嶺』の三文字が刻まれた石碑です。
『金剛嶺(こんごうれい)碑』ともいわれ『経塚の碑』は、付近に住み、旅人を悩ませていた妖怪を封じるため、尚円王統の尚真王時代(1477年~1526年)に日秀上人(紀州の真言宗知積院の住僧)が金剛経文を小石に写して土の中に埋めたところ、それ以来妖怪が出没しなくなったという伝説にちなんで建立された石碑です。
今でも地震や災害などのとき「チョーチカ」「チョーチカ」「チョーチカ」と三度唱える、沖縄民間風俗が残っています。
『経塚の碑』の正面です。周りは静かな住宅街です。
史跡の表示がありました。
史跡の説明の立て札に逸話が載ってました。
M.玉城朝薫の墓(たまぐすくちょうくんのはか)
『玉城朝薫の墓』は、玉城朝薫は、音楽・舞踊・台詞を総合的に取り入れた琉球国劇「組踊」の創始者の墓です。
玉城朝薫は琉球王府の役人として日本本土へ上った際、歌舞伎、能や狂言など大和芸能を学び、琉球芸能に取り入れ組踊を創始しました。
組踊は現在でも絶えることなく上演されています。
前田トンネルの上にあります。
トンネルの入り口付近に『玉城朝薫の墓』の表示があります。
そのまま木製の階段を登っていきます。
登り切ったところで、『玉城朝薫の墓』の説明の立て札があります。
墓は亀甲墓が作られはじめた17世紀後半から18世紀前半のものといわれています。
石積みや縁石に曲線を多用しているのが特徴です。
屋根はサンゴを含んだしっくいを使用してます。破風墓と亀甲墓が融合し沖縄でも大変珍しい造りです。
芸術家らしい見事な『玉城朝薫の墓』です。